悲しい褒め言葉

最近いとこのおばちゃんに、
「のんびりだと思っていたのに凄い!」
と褒められた。
嬉しくなかった。



わたしはのんびりな自分が嫌だった。
のんびりと思われたくなくて、多分、あらゆる努力をしてきた。
その成果が認められた。
なのに嬉しくなかった。




わたしは深いところで、こう言われたかった。

のんびりでいいよ。
のんびりなあなたで、まるごとOKだよ。




「肌がきれいになって良かったね!」
と言われた時もそうだった。


なにかになったあなたは良くて、
なにかじゃないあなたは良くない。
そう言われた気がした。
どちらも自分なのに、
優劣をつけられるのは悲しい。




自分を変えようとする努力は、無駄じゃなかったけれど。
新しい自分を身につけても、消えて無くなりはしない。

のんびりは、自分自身なのだ。

無自覚と無知

カスタードクリームが、安く簡単に作れることを知った時、
世の中を恨みたくなった。



かつては、甘いクリームが食べたくなると、夜中でも徘徊した。
コンビニをはしごした。
今までなんたってそんなこと、誰も教えてくれなかったんだろう。



カスタードクリームと同じ要領で、ホワイトソースが作れることを知った。
レシピに名前があると一瞬で諦める、「生クリーム」が無くても作れる。


「さしすせそ」と粉末のだしで、あらゆる味付けができることを知った。
なんとかのタレは、あたかも便利そうに売られているけど、
「さしすせそ」で、あらゆる味付けができる。



今まで生きてきて、そんな情報にかすりもしなかったことを不思議に思う。
思考は、直線的で短い回路に繋がっていた。
それは固定観念であり、情報をシャットアウトしてきたのだろう。
他に余地がないみたいに。




わたしはこう思う。
ただ、「それを買う」という習慣に動かされていた。
それは自分が子供で、親の買う物を無意識に眺めていた頃から始まっているかもしれない。

驚いたことに、わたしはホワイトソースが自分で作れるということが、これっぽっちも浮かばなくなっていた。





既製品を買うというのは、逆説的に、
「自分では作れない」「面倒」「難しい」「特別な材料がいる」というのを、自分自身に刷り込むのかもしれない。


売られているのを見るだけで、案外その役割を果たすものかもしれない。


スーパーにはいつでもりんごがあり、庭にりんごを植えるという手段を忘れる。
ホワイトソース=レトルトになる。
思考はそこでストップし、
習慣に飼いならされる。



イメージは、意図しないところで無意識に作られているみたいだ。
それは虚構であっても、自分にとって事実であるような輪郭を持つ。
そして砂の城のように崩れる。

ちっぽけな劣等感

近くのコンビニに行かなかったのは、知り合いに会いたくないからだ。
どうしてだろう?



同級生のことや、近況を話し合うのが嫌だった。
お互いそれほど興味はない。
共通の話題がそれくらいしかない。
もっぱら会うのは、昔から知ってるおばちゃんや、知り合いの母親なのだけど。



しかしよく考えれば、会ったって構わない気がする。
会ってしまえば、失礼のない程度に愛想よくし、適当なところで切り上げることができる。
しかしそんな自分にも嫌悪感がする。


街中なら、うつむいて足早に通り過ぎるところを、
ここでは止むを得ず、作り笑いをして、取り繕う。
別に嘘ついたりぼかしたって構わないのに、聞かれるとどうも正直に話してしまう。




しかし今日は、そのコンビニに行くことを選んだ。
それが一番効率がよかった。
頑なに行かない理由が、思いグセであることにも薄々気づいていた。



そして今日行って分かった。
自分からありのまま話してしまえば、隠したいことも後ろめたい事もなくなってしまう。
自分は結局、仕事をせず実家暮らししていることを、知られたくなかったのだ。
長々と書いたが、これが本音だった。



精神疾患になってから、自分の心の荷物に気づき、ある程度軽くしてきたと思う。
それでも少なからず、劣等感を抱いていた。
それは、拭い去ったと思ってもこびりついている。
まっさらというわけにはいかない。


それを認識することが、必要だったかもしれない。
少なからず付着している、無意識の自分を。




とにかくこれでラクになった、便利になった。
最寄りのコンビニを利用するのが、なんたって都合がいい。
卵と牛乳を買うためだけに、30分かけて次のコンビニまで行かなくて済む。

標準から外れた、愛すべき自分。

「匂いがないこと」が普通とされている。
本当にそうなのだろうか。
「いろんな体質の人がいること」
が普通ではないのかな、と思うんです。


もちろん、それは自分が体臭持ちだから、自分を肯定しているだけと思われていいんです。



悩みというのは、多くの場合「標準」によって作られているかもしれない。
そこから外れた部分に悩む。



だけど自分なんて、標準から外れた部品だらけじゃないだろうか。
本来、ヒトは。
個性は、針の穴に通せるようなものでない。
多彩で溢れ出している。
 

でこぼこやツルツルやスロスロやもこもこが無限とあるのに、ツルツルだけが良いとされる。
他の人はツルツルになれた時しか幸せを感じられないとしたら、多くの時間は…


だけど、きっとそうではないですよね。




シミやソバカスがあっても。
一重まぶたでも。
ニキビがあっても。
ガリガリでも。
個性として、いつか受け入れられるようになれたらいい。
笑顔で過ごせたらいい。



世間は相変わらず標準を作り、標準から外れた者を叩いていても。
自分の見方に責任を持てばいい。
自分や、自分の大切な人たちに、優しく寛大であれたらいい。

今日はまぁ、選挙に行く。

今日の選挙で、

最高裁判所裁判官国民審査

なるものが、ひっそり同時に行われる。



調べてみたらかなりいわくつき。
投票用紙に裁判官の名前が書いてあって、辞めさせたい人にバツをつける。
罷免させるには、国民からのかなりのバツが必要なようだ。
判断材料は、それぞれの裁判官が今までどんな判決をしたかということなんだけど、
自発的に調べる必要がある。
わかりにくく、意欲を削ぐ。
テレビでは報道されない。
今まで罷免された裁判官はゼロ。

今回、期日前投票を済ませた人から、国民審査ができなかったという声があがっている。
二度手間になったり、せずに終わった人がいるようだ。


なんかおかしくないですか?


「バツをつけさせたくない」
「国民になるべく知られたくない」
そういう雰囲気、かもしすぎじゃないですか?




それで判断材料となるものを検索してたんですけど、
「こいつはバツだ、こいつは良い」
ときめてかかっているコメントやサイトが多い。
それは情報とは言えない。
それぞれが判断することだ。



あるサイトでは、過去の裁判官の判決が3件づつピックアップされていた。
それが批判されるような判決だけだったり、良いと思える判決だけだったりすれば、情報操作になると思う。

一部だけのせるのは、見やすいけど公平ではない。
実際見ていると、「この裁判官はこの件で見るとバツだけど、この件は支持できる」
ということがけっこうある。
一つの件だけに的を絞らず、なるべく広く目を通しておくことが、自分で判断することにつながると思う。



自分って鵜呑みにしやすいヤツだったんだな…と気づいてから、
マインドコントロールや洗脳、プロパガンダは、とても身近にあると気づいた。
それはどこか遠くのものではなく、すでに浸透している。
そのプールにどっぷり浸かり、息を吸って吐いているということに気づかない。


わたしたち自身が媒体だ。
見たものを鵜呑みにしたり、自分の考えが全てであるかのように拡散することは、
自分がテレビや新聞になること。
マインドコントロールに加担することなのかもしれない。



もちろん、それを意図的に行う人たちも存在するのだろう。
そういうことを意識した上で、情報というものを見ていきたい。
発信にも気をつけていきたいと思う。

船を漕ぐ

「環境破壊をやめよう」と言うより、自分が環境にいい生活をする方がずっとパワーあることだと思う。
前進させることだと思う。



自分が興味を持ったことを、できる範囲で、楽しんで取り組めばいい。
遠くの海にゴミ拾いにいかなくても、日常生活でできることはたくさんある。



義務感で、無理して、完璧である必要はない。
心地よく生活できるレベルで取り組む。
たとえそれが20%に思えても、始める前より前進だ。



システムを変えるのは少し腰が思いけど、自分で作る楽しみがある。
わくわくや好きはガソリンで、自分にとって取り組みやすいものを教えてくれる。
苦痛をこえて、のめりこめる。


「こうやって失敗しました」
「こうすると上手にできました」
「使用感はこんなかんじです」
「こうやって作れます」


それらを発信するのは、
種を配ることだと思う。
興味のある人が受け取り、
それぞれが育てていく。
同じ気持ちを持つ人が、種を受け取り、花を咲かせ、また種を配る。
種の配り方もいろいろあって、必ずしもやりとりを自覚してるわけじゃない。
そういう前進の仕方がある。



「環境破壊をやめよう」なんて言葉を必要としない。
偽善も、批判も必要ない。
他者を変えようとせず、自分の船を漕いでいけばいい。
摩擦なく、推進力を感じるルートに乗り換えていく。
わくわくや好きは、自分にぴったりの船だ。

良いも悪いも流れてく

世の中は何故か続けることがもてはやされている。
辞めることは挫折と感じる風潮がある。
しかしそれは見方の一面でしかない。


パズルのピースに合うように、適材適所があり、それを探している段階だと、ポジティブに捉えることもできる。
挫折だと、ネガティブに捉えることもできる。



例えばスポーツ選手が怪我をする。
選手は苦しい。
夢を絶たれたと感じる。
しかし新しく始めたことがとても合っていて、第二の人生が開けたとする。
怪我というアクシデントが、転向のキッカケを運んできたと思えるようになる。
“抗い難い何か”がなければ、選手は高みを目指し続けていただろう。

このように、自分の意思に反することが起きる時、見えない導きである場合も多いと感じる。
そして幸せの種は、必ずしも嬉しい出来事としてやってくるわけではない。




わたしたちは画面を引いて眺めることができない。
ある一点だけで良い・悪いと判断する。
その時の感情を全力で味わう。


しかしそれは点ではなく、過去から未来まで続いている。
ストーリーには続きがあり、出来事の意味付けは変わっていく。
後になって「あのことがあったから…」と苦難に感謝することもできる。
未来を体験することは、画面を引いて眺めることと似ている。



わたしたちはいいことだけを受け入れようとし、苦難は追い払おうとする。
しかし苦しみというのも、ただ苦しいだけでなく、気づきや得るものがある。
苦難はギフトだ。


どんな出来事が起きても、
その意味付けは流動的であり、
自分たちの意識で変えられるということを教えてくれる。