夢への招待

朝めざめた時、夢の内容をメモすることを習慣にしている。
覚えていられるのはほんの一部で、大半は忘れているように感じる。
容量があるのかもしれない。



メモをとり始めると、それがいかに忘れやすいかわかる。
二度寝すると、クリアだった映像は、泥沼のようにもったり重くなる。
覚えておくために反すうしていたことが、目を開けた瞬間吹き飛ぶ。
書こうとした瞬間、砂のように抜け落ちる。
何パーセントかはこういうはめになる。



メモを見返して思い出す夢もあれば、
いつまでも覚えていられる夢もある。
昔からそこには興味惹かれるものが含まれていた。
たくさんのなぜ?があり、それはいつまでもわからないままだ。




夢がなんなのか、はさておき、とにかくメモをつけるようになった。
夢の中の自分は、まぎれもなく自分である。
この世界で考えていること、その日見たもの感じたこと。意味不明な羅列。


そこでは夢を“現実”だと思っている自分がいて、
自分の思考パターンを観察できる。
夢を見ている間はプレイヤーだ。
感情や、狭い物の見方に縛られる。
目が覚めることは客観視することだ。
メモはそれを強化してくれる。
ここでは省くが、おもしろいことがたくさんある。




夢はそうめん流しみたいだ。
いつでも気づきが含まれているように感じる。
気づかなければただ、流れていく。
見ていなければ気づかないし、
箸を出さなければ拾えない。

しかし、そうめんが流れてる間、おにぎりやスイーツを眺めてたっていいわけです。


夢に着目しなくたって生きていけるし、夢に着目してみるのもいい。
そういうラフさも好きだ。
いってみれば、自己発見のツールの一つではないだろうか。
ツールは他にもあるし、
気づかなくったっていい。
自分がただ、そういうのが好きなだけだ。


もし取り損ねても、ザルに溜まったそうめんはまた流れてくる。
そんな風に、気づきのチャンスは日夜放たれているのではないだろうか。




夢のメモをとることは、そこに箸をのばし、なにかを拾おうとすることに感じる。
気づきをこの世界に反映させることができた時、
夢の立ち位置は変わり、存在感は増してくるのかもしれない。
並行する、ミラーの世界のようだ。



科学的根拠も確証も必要ない。
好奇心と淡々とした記録があればいい。