大きな波をこえて

軽躁をいい、鬱を悪い、
と思わなくなった。
その上下でひとつだ。
自分はそういうバランスの取り方をしている。



軽躁は気持ちがいい。
頭が冴え、体は俊敏だ。
アイディアが閃く。
重たかったことが、どんどん片付く。
睡眠が短くなり、目覚めはすっきりする。
多幸感。


イラつき、人を見下す、散財などもあるけれど。
ごく軽い躁は、春の芽吹きのように軽やかだ。
「調子が良くなった」と感じやすい。


しかしそれは、下降の前触れでもある。
この時期は新しいことを始めるチャンスだ。
しかし躁を基準に物事を始めると、鬱になった時自分を苦しめる。
ブレーキに手をかける。



しかし結局のところ、躁を自分の意思で抑えることはできないと感じる。
流れというものがある。
動き出そうとする車輪を止めれば、心はきしむ。
空気は淀み、停滞する。
それがなんであれ、抗えば摩擦が生じる。



わたしの目的は、摩擦を減らすことに感じる。
躁鬱をなくしたり、隠すことではない。
波を利用して、立派になることでもない。
その波に、自然に呼吸を合わせることだ。



躁を押さえ込もうとしていた自分に気づく。
わたしは受け入れると言いつつ、恐れているのだろう。
苦しむのが恐い。
回避しようとする。


ありのままで、
ぶつかってしまって、
そこからまた何かを拾い上げればいい。
自分から発せられるすべてに意味がある。
醜くても大事だ。



人生最大の落差は、新しい考えと環境に導いてくれた。
新しいドアを開けるには、どん底に行く必要があった。
それはふりこなのだ。


自分の中の闇が浮上する時、
何かに直面する。
否定し、見て見ぬふりをしても、それは自分の中にある。
暗がりでどろどろ成長し、やがて発露する。


浮上を受け入れようと思う。
それにどっぷり含まれるのは苦しいけど。
対処できるのもまた、浮上した時なのだ。
それらは自分に蔑まれ、避けられてきた、自分自身かもしれない。
切り離してきたものを、今度は自分から包みこむ。
恐れや苦しみは薄らいでいく。



風船が破裂した時、
外の世界をシャットアウトし、
自分の内面に向き合う。
それは社交的で華やいだ時間と同等に、価値のあるものかもしれない。

どちらがいい、悪いも、
上も、下も、
本当はないのかもしれない。
それらはいつも一緒にある。
隣り合っている。
同じ振り幅である。