無自覚と無知

カスタードクリームが、安く簡単に作れることを知った時、
世の中を恨みたくなった。



かつては、甘いクリームが食べたくなると、夜中でも徘徊した。
コンビニをはしごした。
今までなんたってそんなこと、誰も教えてくれなかったんだろう。



カスタードクリームと同じ要領で、ホワイトソースが作れることを知った。
レシピに名前があると一瞬で諦める、「生クリーム」が無くても作れる。


「さしすせそ」と粉末のだしで、あらゆる味付けができることを知った。
なんとかのタレは、あたかも便利そうに売られているけど、
「さしすせそ」で、あらゆる味付けができる。



今まで生きてきて、そんな情報にかすりもしなかったことを不思議に思う。
思考は、直線的で短い回路に繋がっていた。
それは固定観念であり、情報をシャットアウトしてきたのだろう。
他に余地がないみたいに。




わたしはこう思う。
ただ、「それを買う」という習慣に動かされていた。
それは自分が子供で、親の買う物を無意識に眺めていた頃から始まっているかもしれない。

驚いたことに、わたしはホワイトソースが自分で作れるということが、これっぽっちも浮かばなくなっていた。





既製品を買うというのは、逆説的に、
「自分では作れない」「面倒」「難しい」「特別な材料がいる」というのを、自分自身に刷り込むのかもしれない。


売られているのを見るだけで、案外その役割を果たすものかもしれない。


スーパーにはいつでもりんごがあり、庭にりんごを植えるという手段を忘れる。
ホワイトソース=レトルトになる。
思考はそこでストップし、
習慣に飼いならされる。



イメージは、意図しないところで無意識に作られているみたいだ。
それは虚構であっても、自分にとって事実であるような輪郭を持つ。
そして砂の城のように崩れる。