パズル

お気に入りのデザインの食器で食べる。
そんなことが、自分の楽しみだったりする。
パンにはパンに合う皿を。
ガトーショコラには、ガトーショコラに合う色を。

あってもなくてもいいようなもの。
心を楽しくさせるのは、案外、そういうものだったりする。



無駄と思っていたものが、大切だと気づくことがある。
大人になるにつれ、大切でなかったものが重要なポジションになる。
大切だったものは、関心がなくなったり、後回しにしたり、無駄だと思うようになる。



けれど今は、無駄なんてないのだと思う。
ぼーっとしている時間も、横たわっているだけの時間も、その時の自分には必要だったのだと思う。
それらを無駄だと排除してきた時間さえも、大切だったと思う。



楽しむには、自分に許可を出す必要があった。
そんなの贅沢だ、何の役に立つ?と言い、
自分が楽しむことを許せないと思っている自分が同居している。
あるいは家族の目や、世間体かもしれない。



そうして切り捨ててきた、ひとつひとつをすくいあげて、大切にしていきたい。
抹殺してきた自分のパーツを、ひとつひとつ拾い集めていく。

投影

実家の住人が入れ替わり立ち代わりした時、住む人によって雰囲気がずいぶん変わるなぁと感じた。


父は一見小綺麗だけど雑然としていて、兄は埃っぽかった。
家具の配置は変わりないが、家の雰囲気に確かに違いがあった。
これはおもしろいことだった。
人は空気を連れ歩いているようなものなのだろう。


わたしが一週間弱、兄の引っ越し先に泊まった時、兄はうちじゃないみたいだと言った。
珈琲グッズや調理器具を持って行ったからだろう。


わたしたちはいつも、自分に付随するものと一緒にある。
道具や、洋服や、空気感。
物の選び方、管理の仕方、何が好きで、苦手か。
それらは自分を構成するエッセンスだ。


いいも悪いもなく、自分から発せられるものに無駄なんてない。
それは部屋や物や汚れという、別の形をとった、自分自身としてある。

大きな波をこえて

軽躁をいい、鬱を悪い、
と思わなくなった。
その上下でひとつだ。
自分はそういうバランスの取り方をしている。



軽躁は気持ちがいい。
頭が冴え、体は俊敏だ。
アイディアが閃く。
重たかったことが、どんどん片付く。
睡眠が短くなり、目覚めはすっきりする。
多幸感。


イラつき、人を見下す、散財などもあるけれど。
ごく軽い躁は、春の芽吹きのように軽やかだ。
「調子が良くなった」と感じやすい。


しかしそれは、下降の前触れでもある。
この時期は新しいことを始めるチャンスだ。
しかし躁を基準に物事を始めると、鬱になった時自分を苦しめる。
ブレーキに手をかける。



しかし結局のところ、躁を自分の意思で抑えることはできないと感じる。
流れというものがある。
動き出そうとする車輪を止めれば、心はきしむ。
空気は淀み、停滞する。
それがなんであれ、抗えば摩擦が生じる。



わたしの目的は、摩擦を減らすことに感じる。
躁鬱をなくしたり、隠すことではない。
波を利用して、立派になることでもない。
その波に、自然に呼吸を合わせることだ。



躁を押さえ込もうとしていた自分に気づく。
わたしは受け入れると言いつつ、恐れているのだろう。
苦しむのが恐い。
回避しようとする。


ありのままで、
ぶつかってしまって、
そこからまた何かを拾い上げればいい。
自分から発せられるすべてに意味がある。
醜くても大事だ。



人生最大の落差は、新しい考えと環境に導いてくれた。
新しいドアを開けるには、どん底に行く必要があった。
それはふりこなのだ。


自分の中の闇が浮上する時、
何かに直面する。
否定し、見て見ぬふりをしても、それは自分の中にある。
暗がりでどろどろ成長し、やがて発露する。


浮上を受け入れようと思う。
それにどっぷり含まれるのは苦しいけど。
対処できるのもまた、浮上した時なのだ。
それらは自分に蔑まれ、避けられてきた、自分自身かもしれない。
切り離してきたものを、今度は自分から包みこむ。
恐れや苦しみは薄らいでいく。



風船が破裂した時、
外の世界をシャットアウトし、
自分の内面に向き合う。
それは社交的で華やいだ時間と同等に、価値のあるものかもしれない。

どちらがいい、悪いも、
上も、下も、
本当はないのかもしれない。
それらはいつも一緒にある。
隣り合っている。
同じ振り幅である。

水の世界

ベタを飼いはじめた。

熱帯魚だ。
ペットショップで、小さなビンに入れられていた。
じっと見つめあった。


飼いやすい魚としてあげられることが多く、名前は覚えていた。
それほど可愛いという印象はなかった。
しかしその薄オレンジのベタは可愛かったし、他のベタは全部同じに見えた。
魚にも「個」のようなものがあるんだなと思った。
広い水槽で泳がせてやりたいと思った。



もともとは、めだかを飼うつもりだった。
水槽は魚を入れる一ヶ月くらいから稼動させておくのが望ましいという。
家にあるのはカルキ抜きした水、水槽、殺菌中の水草、さっき買った流木。
この状況で魚を買うのは好ましくない。
しかしわたしはその日、ベタを連れ帰った。
一目惚れみたいなものだろうか。
必要なものは最低限揃えた。



ベタはよくこっちを見ている。
見ているようで見ていない空虚さではなく(よく疲れてる人に、《魚のような目》といいますよね)
自意識みたいなものを感じる。
ピンセットでアカムシをやると、勢いよく食べてくれた。
魚がこんなに可愛いとは思わなかった。



設備の関係上、あと1週間は小さいビンで過ごしてもらわなければならない。
汚れた水を少量抜き、少量足したが、とても緊張した。
水そのものが命みたいに繊細だ。
うまくいったら、ベタが好きだというアヌビアスナナを入れてあげたい。

夢への招待

朝めざめた時、夢の内容をメモすることを習慣にしている。
覚えていられるのはほんの一部で、大半は忘れているように感じる。
容量があるのかもしれない。



メモをとり始めると、それがいかに忘れやすいかわかる。
二度寝すると、クリアだった映像は、泥沼のようにもったり重くなる。
覚えておくために反すうしていたことが、目を開けた瞬間吹き飛ぶ。
書こうとした瞬間、砂のように抜け落ちる。
何パーセントかはこういうはめになる。



メモを見返して思い出す夢もあれば、
いつまでも覚えていられる夢もある。
昔からそこには興味惹かれるものが含まれていた。
たくさんのなぜ?があり、それはいつまでもわからないままだ。




夢がなんなのか、はさておき、とにかくメモをつけるようになった。
夢の中の自分は、まぎれもなく自分である。
この世界で考えていること、その日見たもの感じたこと。意味不明な羅列。


そこでは夢を“現実”だと思っている自分がいて、
自分の思考パターンを観察できる。
夢を見ている間はプレイヤーだ。
感情や、狭い物の見方に縛られる。
目が覚めることは客観視することだ。
メモはそれを強化してくれる。
ここでは省くが、おもしろいことがたくさんある。




夢はそうめん流しみたいだ。
いつでも気づきが含まれているように感じる。
気づかなければただ、流れていく。
見ていなければ気づかないし、
箸を出さなければ拾えない。

しかし、そうめんが流れてる間、おにぎりやスイーツを眺めてたっていいわけです。


夢に着目しなくたって生きていけるし、夢に着目してみるのもいい。
そういうラフさも好きだ。
いってみれば、自己発見のツールの一つではないだろうか。
ツールは他にもあるし、
気づかなくったっていい。
自分がただ、そういうのが好きなだけだ。


もし取り損ねても、ザルに溜まったそうめんはまた流れてくる。
そんな風に、気づきのチャンスは日夜放たれているのではないだろうか。




夢のメモをとることは、そこに箸をのばし、なにかを拾おうとすることに感じる。
気づきをこの世界に反映させることができた時、
夢の立ち位置は変わり、存在感は増してくるのかもしれない。
並行する、ミラーの世界のようだ。



科学的根拠も確証も必要ない。
好奇心と淡々とした記録があればいい。

巡り

秋に物を処分した際、そのいくつかを庭先に出した。

ガレージセールだ。
正確には、好きに持ってかえってもらった。



新品同様だが使わないもの。
好きで選んだが、色あせて見えるもの。
ほとんどは残ったが、次に見た時そのいくつかがなくなっているのは嬉しかった。




今日、犬の散歩をしていた。
向かいの家の庭に、見覚えある時計がかけてあった。
ガレージセールに出したものだ。


その時計は建物の中ではなく、外側につけられていた。
買うほどではないが、あるならあそこにつけよう、といった具合に。


きっと外で作業をするとき、チラと目をやるのだ。
お婆さんがひなたぼっこから帰ってきたとき、チラと見るのだ。




初めて電池をいれてもらい、
初めて居場所ができた。
わたしはなぜか、この時計の気持ちのように嬉しい。
余剰を流す、ということにとてもわくわくする。
いろんなかたちのシェアがある。

春に投げたブーメラン、冬返る。

人生うまくいっている時、笑顔や感謝を口にするのはたやすい。
それは温かな春風に吹かれ、「気持ちいい」と言うようなものかもしれない。
それは誰にでもやってくるサイクルで、誰にでもできることなのだ。



わたしはしばしば、人生のこういう時期を勘違いしてきた。
まるで自分がいい人になったような、人格が高くなったような気になった。
嫌なことがあった後にだいたいその時期はやってくるので、なおさらそう思った。
春風が吹くと立派なことを言い、北風が吹くと台無しになった。
まさに今がまた、人生において何回目かの、春風かもしれない。



恥ずかしいけれど、立派になりたかったし、立派に見せたかった。
それはいつでも、自分の成分の一部としてある。
これを書いている今も、自分の中に存在する。
そいつはいつの間にかハンドルを握っているので、たまにおいおい、と肩をたたかねばならない。



「また北風は来るから、あまり立派に振る舞いすぎるなよ。」
それは自分の相棒なので、うまく付き合っていかねばならない。
エネルギッシュで強欲なエゴイズムだとしても。



誰かに何かを解くことは、北風がやってきた時、自分の無能ぶりをさらすことになる。
わたしはそういうケースを見た。
自分もさらしてきたことだろう。
それが盛大にならないよう、はっと気づいた時、肩をたたいてやらねば。
特にこのような時期は。